[転載]精神むしばむ原発事故 命絶つ被災者絶えず(東京新聞「こちら特報部」 2012/5/31)
悲しみと、怒りをこめて転載。
先日、一時帰宅した浪江町で首をつって亡くなった男性は、62歳。
福島で生まれ育った方なのだろうか、、?
子どもの頃は親が転勤族で、今はひとり住まいな僕でさえ、住むところを追われたら大変だ。
ましてや、生まれ育った故郷に帰れないとなれば、どんな気持ちになるのだろうか?
こんな人たちに対して、何かをつぐなう可能性があるとしたら、まずは「同じ過ちは、くり返しません」と誓うことではないのか。
残念ながら、国にその意思は無く、原発は再稼働の一歩手前、いや半歩手前に来ている。
そしてこれを見て見ぬふりをし、手をこまねいているのなら、私らもこの人たちに対して、同じ仕打ちをしていることになる。
「大切なのは、忘れないこと」なんて、寝ボケたこと言ってる場合じゃない。
そんなんは当たり前すぎる。私らにできるのは、声をあげて動くことです。
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精神むしばむ原発事故
命絶つ被災者絶えず
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2012053102000096.html
「いつになったら」。東京電力福島第一原発事故は、終わりの見えない不安と将来への悲観を被災者にもたらした。事故から一年以上たったが、精神的に追い詰められて自ら命を絶つ人は、今でも後を絶たない。原発事故は、人の精神を確実にむしばむ。心のケアが急務だ。 (上田千秋、小坂井文彦)
「妻の死をただの自殺で終わらせたくなかった。私のような思いを味わう人を二度と出さないためにも、東電の責任を明確にしなきゃいけないと」。渡辺幹夫さん(62)は、福島県川俣町の仮設住宅で静かに語り出した。
妻はま子さん=当時(58)=が同町山木屋地区にある自宅近くでガソリンをかぶり、命を絶ったのは昨年七月一日。渡辺さんは今月十八日、「避難生活などで心的負担が増したことが原因」として、東電に約九千百万円の損害賠償を求める訴えを、息子らとともに福島地裁に起こした。
原発事故後、一家は福島市などに避難。いったんは自宅に戻ったが、地区が計画的避難区域に指定されたため、六月十二日、福島市のアパートにはま子さんと二人で移り住んだ。息子二人とは仕事の都合で別居せざるを得なかった。
同月二十三日、勤務先の養鶏場が事業継続を断念。夫婦は仕事も失った。様子がおかしくなったのはそれから間もなく。「同級生の葬儀で一日中家を空けて帰ると、部屋で泣きじゃくっていた。夜中に泣きだすことが何回かあって、家に戻りたいとしきりに訴えるようになった。今振り返ればそれがサインだったのかもしれないけど」と声を落とした。
同月三十日、はま子さんの求めに応じて一泊の予定で自宅に戻った。庭を見ながら、ソファで二人きりの夕食を取った。「私はここに残っから、あんた一人で帰ったら」「ばかなこと言うな」。そんなやりとりがあって床に就き、翌日午前一時ごろ、はま子さんが布団の中で泣いているのに気付いた。言葉を交わすことはなく、はま子さんは渡辺さんの手を握りしめたまま眠ったという。
午前四時ごろ、渡辺さんは家の周りの草刈りに出掛けた。しばらくすると、近くで何かが燃えているのが分かった。「古い布団でも燃やしているんだろう」と気にも留めなかった。
草刈りを終えた渡辺さんが戻ると、はま子さんの姿が見えない。「もしや」と思って自宅を飛び出した渡辺さんの目に飛び込んできたのは、変わり果てたはま子さんの姿だった。
明るく社交的で、誰とでも仲良くなる性格だったというはま子さん。朝と夜は、庭で栽培していた野菜と花の世話。「じっとしているのが嫌な性格。急に何もやることがなくなったのが、こたえたのかもしれない。原発事故さえなければこんなことには」
昨年八月の住民説明会で、渡辺さんは東電の社員に妻が自殺したことを伝えた。「私たちでは回答できない。持ち帰って検討させていただきます」。口調や態度こそ丁寧だったが、その後、連絡が来ることはなかった。
二人とも山木屋で生まれ、山木屋で育った。結婚三十九年目の暮らしが平穏に続いていくはずだった。渡辺さんは「何もかも失ったのに、このままで終わらせるわけにはいかない。東電は私に向き合おうともしない。自殺で家族を失った人たちと、一緒に闘っていければと思っている」と語気を強めた。
今月二十八日には浪江町で、一時帰宅をしていたスーパー経営の男性(62)が倉庫で首をつっているのが見つかった。原発事故の避難生活で転居を繰り返し、最近は福島市の借り上げ住宅で暮らしていた。
「いつになったら商売を再開できるのか」と、眠れない日もあったという。「福島市内でスーパーを始めてはどうか」と知人が声をかけても、浪江町以外では「やる気ねえ」。慣れない土地で商売を始めることは容易ではない。「このまま生きていても仕方ない」と漏らしていた。
内閣府自殺対策推進室は昨年六月から、岩手、宮城、福島の三県で「東日本大震災に関連する自殺者数」の統計をまとめている。福島県内で震災・原発事故の影響で自殺した人は今年三月までに十三人。実際にはもっと多い可能性がある。
昨年六月には同県相馬市の山あいの集落で、酪農家の男性=当時(54)=が自ら命を絶った。乳牛約三十頭を飼育していたが、原発事故後、牛乳から放射性セシウムが検出されて出荷停止。飼育費は月額百万円かかるのに収入はなく、真新しい堆肥舎の壁には遺書とも取れる文面がチョークで書き残されていた。「原発さえなければ」
内閣府が震災関連の自殺と認定しているのは、避難所や仮設住宅で自殺した場合や、原発事故の居住禁止地域から避難中、遺書に原発事故の影響について記されていたケースなどだ。
自殺でも「震災関連死」であれば、家計を支えていた人には、国と自治体から計五百万円の弔慰金が支払われる。遺族が市町村に申請し、「震災関連死」と認定される必要がある。
浪江町で自殺したスーパー経営者の場合はどうか。審査会が判断するが、同町の担当者は、「個別のことなので何とも言えない。自殺で関連死と認められたケースはなくもない」と話した。
浪江町遺族会の叶谷(かのうや)守久会長(72)は「人のつながりがあればよいが、内にこもる人はストレスがたまる。どうやって生活を立て直したらと、みんな考えるんだよな。今後、続かなければいいが」と憂慮する。叶谷さんは、原発事故の影響で救助に行けず、津波被害の家族を失ったとして東電に賠償を求めている。
精神面のサポートのため、福島県は二月に「ふくしま心のケアセンター」を設立。九人の精神保健福祉士と十二人の臨床心理士が仮設住宅などを回る。県障がい福祉課の鈴木健一郎副課長は「治療ではなく予防。心の問題は本人に自覚がないケースも多く、訪問して面談する」と説明した。
家族や友人を亡くした喪失感を訴える人が二割、避難生活や将来の不安を訴える人が二割程度いたという。「早めの対応が必要」としながらも原発事故から約一年たってのセンター設立。体制が追いついていない。浪江町なども精神ケアを強化したいが、手が足りないのが実情だ。
自殺した酪農家と親しかった飯舘村の酪農家長谷川健一さん(58)は「ストレスがたまるのは、避難生活の長期化だけでなく、将来を見通せないから。ケアセンターでは解決できないのでは。除染をすれば、帰れると希望を持たせて、なかなか帰れないから余計にストレスがたまる。一年すぎて、自殺はまだまだ増えると思う」と話した。
<デスクメモ> 原発事故で苦しんでいる人は、まだ大勢いる。それなのに、再稼働をしないことは「集団自殺をするようなもの」と例えた与党実力者がいた。「原発事故はもう二度と起こしてほしくない」というのが被災者の自然な感情だろう。再稼働に向けてひた走る野田政権には、それが聞こえていない。 (国)
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東京新聞さま なにとぞ転載お許しください。。
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記事をひとりでも多くのかたの目に触れてほしく思いました。
あ、紙面のスキャンはネット上で拾ったものです。
スキャンされた方、勝手にすみませんm(_)m